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例外と原則

 確か、ドイツのブレヒトという劇作家のエッセーに、「例外と原則」と題されたものがあったかと思いますが。ちなみに、彼はかなりの皮肉屋で、僕自身は大変好きな作家の一人です。戯曲も面白く捨てがたいのですが、なんといってもアイロニー満載のエッセーが大変よく、学生時代には結構愛読しておりました。そういう人物ですので、名言集のようなものがあり、これがまた傑作です。
 そのエッセーの内容はというと、おそらくどのような原則にも例外はつきものであるといったことだったと記憶しております。つまり、例外のない原則など存在しないということだったと思います。だからといって、無原則なのがよいということを主張しているのではなく、規則とはそのようなものであり、それをふまえて柔軟に対応することが肝要だとの趣旨であったと理解しているのですが。
 実際どのような規則にも例外がつきものです。原則をかたくなに振りかざすだけでは、物事は前に進めることが難しいのはいうまでもありません。ですが、それをたてにとって無原則を貫くこともまた、いい加減なことと非難されても仕方ないことでしょう。
 こういう状況が、政治の世界ではままあるのです。政治とは妥協のアート(芸術)である。これは僕の政治に対する基本的な認識です。その意味では、政治観と言っていいでしょう。政治とは、様々な利害が対立し、それを調整するプロセスであることは自明であると思われますが、その過程で個別的な利害、特殊な利益に拘束されている限り、妥協ということは考えられなくなってくるのです。
 それだからこそ、議員は選挙区の特定の利害のみを代表するものではないという考えが成り立つのです。つまり、特定の利益代表ではなく、一般代表であるべきということになるのです。これが今日の政治学の教科書的な理解としての、一般代表制ということです。実際には、この原則を貫徹することは、結構難しいのですが、だからといって無原則であるはずがよいわけではありません。
 このブログでもこれまでに書いているように、こうした事態にどのように対応していくのか、本当に頭を悩ませるところです。これからどのような判断を下していくのか、県民の一般的な利害を表象すべき県議会議員としても、問われるところではないかと思います。

 またしても最初には一般論しか書かないで、一体どうゆうことなのかと思われるだろうと思います。読んでいて話が見えないとは思いますが。だから、続きでは、いつものように踏み込んで書いていくことにします。事実関係を含めて。
 そもそもなんで例外と原則なのか。議会はまさに例外と原則のグレーゾーンのせめぎ合いという性格を持っています。それを象徴するのが、原則を決めても例外があり、それを理由に原則に従わないという余地を残すという、大人な判断を許容することがあります。
 これは一般論なんですが、これをたてにまさに例外状況の場合を論じていたのが、いつの間にか原則の問題にすり替えられていく、こうしたトリックによって原則に従うように求められてしまったのです。それも採決のルールに反するようなやり方で。これは非民主的な決定のあり方といわざるを得ません。
 要するに、これでは何でもありということになり、皮肉なことに例外が常態化して、原則が欠如してしまうという事態に陥ってしまったのです。おまけに会派の多数の人々に遺恨を残すような形で。
 明らかにこれは例外と原則の二律背反的な関係を考慮に入れない、その意味では決して思慮深いとはいえない、安易な姿勢によるものといえるでしょう。こんなことをやっていたら、規則を決めるべき立場の人間として、大いに問題があるといわれても仕方ないでしょう。いうまでもなく、地方議員も条例という、限定されたものかもしれませんが、立法権を行使することの出来る立場なのです。
 最近とみに、規範意識の低下を嘆く人が多いのですが、まずはこのような民主主義にとって最低限の規範さえ喪失している状況こそ憂うべきではないでしょうか。規範、規範と叫んでいても、規範が本当のところ意味することが分からなければ、それこそ喜劇(悲劇)です。このような自覚が、正直なところ、ほしいものです。
 確かに、政治は妥協のアートである以上、いつも原則に縛られることは出来ません。でも、そうであるからこそ、常に原則を確認し、そこからなるべく逸脱することなく、折り合える範囲を定めていく。これが妥協の本当の意味ではないでしょうか。やみくもに妥協をすることこそ、まさに無原則のそしりを免れないのです。ここで政治家の資質が問われるのはいうまでもありません。
 政治が妥協によってしかデッドロックを突破できないということ、それゆえ理念と現実の関係が鋭く対立するということについて、そうした事実を承認することにはやぶさかではないのですが、好きか嫌いかをいえば、あまり好きになれないところがどうしても残ります。妥協が避けられないのは分かっていても、場合によっては正義をそれによって貫徹できないのは、いささかの禍根が生じるのも事実かと思います。これは政治家としての意見ではなく、政治学者としての意見ではありますが。
 妥協によってしか意志決定が出来ないときに、その妥協が正しさという基準からは容認出来ない、もしくは実効性が乏しいとなる場合は、しばしばあります。そのような典型例は、環境問題、とりわけ地球温暖化の問題にみられると思いますが。こういったケースをどう考えるのか、これが現代民主主義論の課題でもあるのです。こうしたハードケースを丹念に検証することによってしか、民主主義は強化されないというのが、今日のおおかたの民主主義論を研究する研究者の意見ではあると思います。
 実際、正義を貫徹することによって、非妥協的に正しい措置を執ること、これは民主主義の破壊につながるリスクを背負っていることにつながります。非民主的な独裁的な体裁をとらないと、正義が実行できなくなり、民主主義的な決定プロセスを重視すると決定は意味を失う、このようなパラドックスにもっと敏感になる必要があるのではないでしょうか。
 少なくとも、地方政治家として、最低限でもこうした民主主義に内在する危うさを自覚した上で、活動をするべきだと思うのですが。いかがなものでしょうか。こうした自覚がないまま、やみくもに権力に近づいていったり、おかしな決定を下すこと、こんなことは、やはり許されてよいとは思えないのです。
 これはまさに自分に対していえることで、こうした自覚を忘れずに今後の議会活動をしていかなければならないと思います。これはまさに政治の原点であると思います。議会政治にとって、民主主義にとって、さらには間接代表制の意義をかみしめながら、原則を常に振り返りながら、柔軟に対応していく、これが求められるのではないでしょうか。これらを意識して、今後も努力していければと思います。

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2008年03月12日 14:30に投稿されたエントリーです

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